)」の活動に参加した後、ペルシア語のウェブサイトを立ち上げ、イランで最初のLGBT向けラジオ局に参加したスーデー・ラッド (Soudeh Rad) など[90]、フランス国外のメディアではほとんど取り上げられることのない女性活動家を挙げることができる。, エマニュエル・マクロンは大統領に就任して以来、ライシテについて明確な姿勢を示していなかった。マクロン政権下で最初に積極的なライシテ支持を表明したのは男女平等担当副大臣マルレーヌ・シアパであった。「ライシテ・フェミニズム活動家」のシアパ副大臣は2017年に『無条件のライシテ (Laïcité, point ! Histoire de la laïcité en France. Découverte des institutions - Repères - Vie-publique.fr, “Quand les intellectuels quittent la gauche, la droite Figaro jubile”, https://www.challenges.fr/politique/quand-les-intellectuels-quittent-la-gauche-la-droite-figaro-jubile_56922, Loi du 9 décembre 1905 concernant la séparation des Eglises et de l'Etat. 政教分離法/ライシテ. ジャスミン男 2015/01/23 23:46. また、「フランス国外で非フランス国籍者とし て生まれ、現在はフランス国内に在住する者 [宮島2006:77]」とも定義される。これ以外に、「外国 で生まれ出生時にフランス国籍を持っていなかった者も含まれる。また「移民出身者」は、移民の タイトル読み. )』(注記:「積極的なライシテ」、「開かれたライシテ」などの形容詞で限定されないライシテ)という本を著した(共著)。彼女は、「ライシテと女性の権利は直結していると思う。欧州でもそうだが、教会と国家が分離されていない国では、人工妊娠中絶や避妊手段の利用などの女性の権利を真っ向から否定することになりかねない。私にとってライシテが重要なのは、それが特定の共同体や宗教に限定されないということ」[91]、「フランス共和国が強制結婚を許さないのはライックだから。フランス共和国が女性器切除は残酷な四肢切断と同じで、習慣でも伝統でもないと断言できるのはライックだから。文化的・宗教的相対主義の立場を取らず、世界のどんな場所においても、女性の身体に対して本人の同意なく何らかの行為をしてはならないと言えるのはライックだから」[92]と語っている。, フランスでは、表現の自由が法的に制限されるのは、基本的な自由や個人の自由が侵害される場合だけである。ライシテ原則に基づく共和国法においては、宗教的な表現と反宗教的な表現は同等の価値を有する。したがって、冒涜罪は存在せず、思想・表現の自由としての「冒涜する自由」が存在する[93]。, そして、宗教批判は自由だが、個人の自由を尊重する以上、信者個人への攻撃は当然許されない[94]。, もちろん線引きは難しいが、むしろ、だからこそその都度議論を尽くし、合意を形成していく。「『わたしはあなたの意見に反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命がけで守る』--- ヴォルテールの考え方を端的に示すとされるこの言葉が、表現の自由のために闘うフランス人の矜持となっている」[95]。, ただし、アルザス・モーゼル地方(バ=ラン県、オー=ラン県、モーゼル県)にはごく最近まで冒涜罪が存在した。これは政教分離法が成立した1905年に、アルザス・モーゼル地方は(1871年のフランクフルト講和条約により)まだドイツ領であったため、同法の適用を免れたからであり、フランスが同地方を奪還した1919年にも、地方法がフランス共和国法に合わせて改定されることはなかった。アルザス・モーゼル地方の刑法典第166条には、「公共の場で侮辱的な言葉により神を冒涜し、不安を煽る者、連邦領土において設立し、法人として認められたキリスト教団体・宗教共同体又はかかる団体の組織や儀式を公共の場で侮辱する者、ないしは教会又は宗教集会のためのその他の場所において侮辱的かつ不安を煽る行為を犯す者は、3年以下の禁錮刑に処せられる」と書かれていた(また、牧師や司祭、ラビは国から俸給を受け支給され、キリスト教およびユダヤ教の宗教施設の維持費は地方自治体が負担し、さらに、義務教育の一環として宗教教育も行われていた)[96][97]。, この第166条が廃止されたのは2017年1月27日のことである(「平等及び市民性に関する2017年1月27日の法律第2017-86号」[98]による)。, 一方で、差別的な表現による誹謗中傷、憎悪の扇動などで訴訟が提起されることも少なくない。差別は、フランス刑法典第225-1条の以下のように定義されている。, 差別とは、出自、性別、家族状況、妊娠、身体的外観、外見から想像される又は原因が明らかな経済状況に起因する非常に困難な状況、姓、居住地、健康状態、自律性の喪失、障害、遺伝的特徴、風俗習慣、性的指向、性同一性、年齢、政治的信条、組合活動、フランス語以外の言語による表現力、特定の民族、国家、いわゆる人種又は自ら選択した宗教への実際又は想定上の帰属又は非帰属を理由に、自然人の間に区別を設けることである[99]。, 反宗教、宗教批判、反教権主義との関連における表現の自由およびライシテの問題は、とりわけ、2006年に『シャルリー・エブド』がムハンマドの風刺画を転載・掲載したことで激しい議論を巻き起こし、裁判により無罪となったことであらためてその重要性を確認することになったが、このとき、国際人権連盟 (FIDH) のジャン=ピエール・デュボワ(フランス語版)会長 (2005 - 2011) は、「風刺漫画家の自由を含む報道の自由は、宗教による禁止に左右されることはない」、「状況を承知の上で他人の感情を害したり挑発したりすることは、自らの責任においてショックを与え、無知蒙昧を知らしめることである。これに対して、理性のための闘いの第一歩は、常に自由な批判と、常に侮蔑すべき誹謗中傷を区別することであり、これは、検閲や裁判によるのではなく、民主的な議論が必要な問題である。ただし、挑発者は挑発という手段を用いるときに、自分がまるで犠牲者であるかのような振る舞いをして、批判を逃れようとしてはならない」とし、「自由と責任は表裏一体であり、民主主義と尊重も同様である」ことを確認した[100]。, 以下に、フランスにおける表現の自由がライシテ原則に基づくものであることを示す事例を挙げる。, 1988年10月22日の深夜、マーティン・スコセッシ監督の映画『最後の誘惑』が上映されていたパリのサン=ミシェル映画館で放火事件があり、13人が負傷(うち4人は重傷)。テロ事件 (Attentat du cinéma Saint-Michel) としてその夜のニュースで一斉に報じられた[101][102]。, ニコス・カザンザキスの小説『キリスト最後のこころみ』に基づき、キリストを悩める人間として描いたこの作品は、キリスト教団体から「冒涜」だとして猛烈に批判された。放火事件を起こしたのはカトリック極右団体「反人種差別およびフランス人・キリスト教徒アイデンティティ尊重のための総同盟 (AGRIF)」のメンバー5人であった。事件後3週間で『最後の誘惑』を上映していたパリの映画館17館のうち15館が上映を中止。国内の他の都市でも小規模ながら同様の事件が発生した。極右政党「国民戦線」は映画フィルムの完全な破壊を求めた。マーティン・スコセッシ監督は、「キリストは人間の試練を一身に引き受けた生身の人間として描く必要があった」と説明した。5人は1990年の裁判で執行猶予付きの禁錮刑と45万フランの罰金刑を言い渡された[103]。, AGRIFは「反人種差別」を標榜するが、「反キリスト教徒的人種差別」と矛盾を含んだ表現で暗に「白人」に言及し、むしろ多くの訴訟を提起することで反キリスト教的な芸術作品の検閲や発禁を求めることを主な活動にしているが、ほとんどの告発、訴訟において表現・報道の自由を理由に却下され、または敗訴している。, AGRIFは『最後の誘惑』のほか、映画ではジャン=リュック・ゴダール監督の『こんにちは、マリア』、ジャン=ピエール・モッキー監督の『彼は地獄で凍えている (Il gèle en enfer)』、コスタ=ガヴラス監督の『ホロコースト -アドルフ・ヒトラーの洗礼』、ロドルフ・マルコーニ監督の『これが私の肉体』、ミロス・フォアマン監督の『ラリー・フリント』がAGRIFに訴えられたが、訴えはすべて却下された[104][105][106]。, 2005年3月、パリ大審裁判所が、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を模した衣料品会社マリテ+フランソワ・ジルボーのポスター[107]について有罪判決を言い渡した。, これは『最後の晩餐』のキリストと使徒らを女性に置き換えた写真で(ただし、背中を向けている男性が1人)、既にイタリアのミラノでは禁止されていたが、フランスではフランス司教協議会の一派である「信仰・自由」協会が「宗教を理由に特定の集団を誹謗中傷した」として訴えていた。他のキリスト教指導者からも「冒涜的だ」、「嘲笑的だ」、「暴露的だ」、「信仰を商業的な目的に利用した」、「この調子だと、次は十字架にかけられたキリストが靴を売ることになるだろう」などの非難が相次いだ。第一審の判決に対して人権連盟は「恥ずべき後退だ」とし、マリテ+フランソワ・ジルボーの代理人も「表現の自由の禁止を求める判決だ」と批判した。マリテ+フランソワ・ジルボーも他人の感情を害するつもりはまったくないとして不服申し立てをした[108][109][110][111]。, ところが、パリ控訴審(第二審)も、「この広告はよく練られた芸術的・美的表現であるとしても、そしてたとえ聖体の秘跡が題材になっていないとしても、キリスト教創始者の行為を、いたずらに目を引く裸体を使って暴露的に表現し、その神聖さを侮辱したことに変わりはない」として、第一審の判決を支持した。, 2006年11月、破棄院は、控訴審の判決を無効とし、原告の訴えを却下した[112]。, 2006年、風刺新聞『シャルリー・エブド』がデンマークの日刊紙『ユランズ・ポステン』に掲載され、既に物議をかもしていたムハンマドの風刺画を転載し、併せて、表紙に「原理主義者にお手上げのムハマンド」、「ばかどもに愛されるのはつらいよ」書かれた風刺画を掲載したことで、イスラム団体(仏イスラム組織連合 (UOIF) とグランド・モスケ・ド・パリ)に「宗教を理由に特定の集団を公に侮辱した」として訴えられた[113]。, 2007年3月の第一審では、「ライシテおよび多元主義を原則とする社会では、信仰の尊重と宗教批判の自由は同じように重要である。・・・この表現(「ばかどもに愛されるのはつらいよ」)は確かに侮蔑的だが、見出し(「原理主義者にお手上げのムハマンド」)に明示的に示される「原理主義者」を対象とした表現にすぎず・・・信者全体を侮蔑する性質のものではない。・・・(他の画もまた)、イスラム教ではなく自爆テロを風刺したものである。・・・頭に爆弾を載せたムハンマドの風刺画については(転載されたものであり)、たとえショックを与えるものであっても、暴力的な示威行動が繰り返された当時の「文脈」において判断されなければならない。(シャルリー・エブドの行為は)明らかに、威嚇への抵抗と、脅迫および報復を受けた(デンマークの)ジャーナリストとの団結を表わす行為である」として、これを無罪とした[114]。, この後、表現の自由とライシテのために闘った『シャルリー・エブド』は文部省からその勇気と功労を称えられ[115]、ダニエル・ルコント監督によるドキュメンタリー映画も制作された[116]。, 2015年1月7日にシャルリー・エブド襲撃事件が発生し、イスラム過激派により『シャルリー・エブド』の風刺画家、コラムニストら12人が殺害された。国際テロ組織アラビア半島のアルカイダが「ムハンマドを侮辱したことへの復讐だ」として犯行声明を出した[117]。, 2006年9月19日付けの『フィガロ』紙に哲学者のロベール・ルデケール(フランス語版)の「イスラム原理主義者の威嚇に晒され、自由な世界はどうしたらいいのか」と題する記事が掲載された。記事には、「すべてのイスラム教徒が教えを受けるコーランには憎悪と暴力が潜んでいる」、「ムハンマドは情け容赦のない戦争のボス、略奪者、ユダヤ人の虐殺者、一夫多妻者・・・これがコーランから浮かび上がってくるムハンマドの実像である」などと書かれていたため[118]、イスラム教徒が大多数を占めるエジプトやチュニジアなどでは同日付けの『フィガロ』紙は発禁になり、フランス国内でも批判が殺到し、ロベール・レデケールは殺害予告を受け、警察の保護下に置かれた。これに輪をかけるように、イスラム原理主義者らはインターネット上に死刑宣告のファトワを流した。「反人種主義・民族間友好運動 (MRAP)」のムールード・アウニ代表は、殺害予告や威嚇は赦しがたいとする一方で、レデケールの挑発がこうした状況を生んだのだと非難した。政治家も同様であった。ドミニク・ド・ヴィルパン首相は、この件は「あまりにも頻繁に不寛容が露わになる危険な世界にいるということ」を示しているとし、ジル・ド・ロビアンもレデケールとの「団結」を表明しながらも、「公務員はどのような状況にあっても慎重かつ節度のある態度を示さなければならない」と批判した[119]。, 一方、「人種主義と反ユダヤ主義に反対する国際連盟 (LICRA)」の主催で、ロベール・レデケールを支援する会が催され、イスラム学者のソエイブ・ベンシェイク(フランス語版)、作家のパスカル・ブリュックネール、哲学者のアラン・フィンケルクロート、エリザベット・ド・フォントネ、ブランディーヌ・クリージェル(フランス語版)、クロード・ランズマン、『シャルリー・エブド』の編集長フィリップ・ヴァル(フランス語版)らが参加した。彼らは、『フィガロ』紙に掲載した記事で、「思考自体が、愚行者や狂信者にとっては挑発になる」とし、とりわけ、一部のイスラム原理主義をファシズムだと非難するソエイブ・ベンシェイクは、「イスラムを批判しないのは(イスラムだけ特別扱いする)隔離政策のようなものだ」と宗教批判を支持した[120]。, さらに、ジャン・ボベロ(フランス語版)は、「ロベール・レデケールの表現の自由を守ることと、憎しみに満ちたばかばかしさを支持するのとは違う」とし、これに反対した[121]。, 2003年5月、フランソワ・バロワン(国民議会副議長、トロワ市長、与党UMP)が「新しいライシテのために」と題する報告書を提出した。バロワン報告書では、多文化主義とイスラム世界がフランスのアイデンティティを脅かすとされ、非宗教性、政教分離原則としてのライシテが、文化およびアイデンティティの問題にすり替えられた[122]。, 2003年7月に、ジャック・シラク大統領の命により、共和国調停人(オンブズマン、Médiateur de la République)のベルナール・スタジ(フランス語版)を委員長とし、歴史・社会学者のジャン・ボベロ(フランス語版)、哲学者・作家のレジス・ドゥブレ、作家のアンリ・ペニャ=ルイズ(フランス語版)などの様々な分野の専門家から成るライシテ原則の適用に関する委員会が設置された。12月にシラク大統領に提出されたスタジ報告書では、ライシテ原則は「国民を結集し、同時にまた、個人の自由を保障する」「国家統合の基盤」であるとされた[123]。, シラク大統領はスタジ報告書を受けて、12月17日に、「共和国の基盤であり、尊重、寛容、対話といった共通の価値の集大成であるライシテ原則」のもとに「国民を結集する」という趣旨の演説を行った。, ライシテは思想・良心の自由を保障する。ライシテは信じる権利と信じない権利を保障する。ライシテは、各国民に、他の信念・信仰を押し付けられるおそれなく、自由かつ心穏やかに信仰を表現・実践する可能性を保障する。ライシテは、全世界から、あらゆる文化からやってくる女性および男性に、共和国およびその機関により自らの信念・信仰が守られることを約束する。すべての人々に対して開かれ寛大なライシテは、各自がフランス社会のために最良のものをもたらすための出会いと意見交換の特別な場であり、異なる宗教の調和的共生を可能にする公的空間の中立性である[124]。, 2006年、1989年に設立された首相直属の検討・提議機関である統合高等審議会(フランス語版)(HCI) がライシテに関する使命を担うことになった。統合高等審議会は2012年に廃止され、ライシテ監視機構(フランス語版)がこの使命を引き継いだ。, 2007年、ライシテ監視機構が設立された。首相直属の機構としてライシテ原則の尊重に関する政府の政策を助けることを目的とする。なお、ライシテ監視機構が正式に発足したのはフランソワ・オランド政権下の2013年4月である。, ニコラ・サルコジは内務大臣(兼宗教担当大臣)の頃から自著『共和国、宗教、望徳 (La République, les religions, l’espérance, Cerf, 2004』で「私はカトリックの文化、カトリックの伝統、カトリックの信仰に育った」と個人的な信条を明らかにするだけでなく、「国家による大宗教の経済的支援」などの1905年ライシテ法の修正を含む「消極的で恥ずべきライシテではなく、積極的な (active) ライシテ」を提唱するなど、物議をかもしていたが[125]、2007年5月に大統領に就任してからも国家元首としてライシテ法本来の精神に反する発言を繰り返し、批判を浴びた。, 2007年12月20日、教皇庁を公式訪問し、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(ローマ司教としての教皇の司教座聖堂)の名誉参事会員の称号を与えられた。これ自体は特別なことではなく、シャルル・ド・ゴール、ジスカール・デスタン、ジャック・シラク、そして2018年にはエマニュエル・マクロンも名誉参事会員の称号を与えられている。問題は、このときの演説で「フランスのルーツは本質的にキリスト教的だ」、「非常に長い間、我々の国家をカトリック教会に結びつけてきた非常に特別な絆」、「ライシテ法にはフランスをそのルーツであるキリスト教から切り離す権限はない」などの表現により、フランス共和国の歴史とカトリック教会のつながりをことさらに強調し、ライシテについて否定的な見方をしていることである。とりわけ、ライシテについては、「コンコルダ(政教条約)を破棄した1905年の政教分離法の成立は、フランスにおけるカトリック教会にとって深い傷を与える辛い出来事であった」という2005年の教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉[126]を受けて、1905年のライシテ法成立前にも成立後にも「フランスでカトリックの信者、司祭、修道会などの団体が味わった苦しみ」に深く共感し、教育についても宗教性が不可欠であるかのように、「価値を守り伝え、善悪を教えることにおいて、小学校教員は決して司祭や牧師の代わりにはならない。なぜならば、小学校教員には人生を犠牲にする情熱や、望徳によりもたらされる熱心な指導者のカリスマ性が常に欠如しているからである」と述べ、ここでもまた(用語は違うが)「積極的な (positive) ライシテ」の必要性を訴えた[127][128]。, 共和主義的ライシテを否定するこのようなこのサルコジの発言に非難が殺到した。フランス大東社は、「フランス共和国は、しばしば困難に直面しながらもライシテの概念を作り上げ、これに生命を吹き込むことで、宗教からの解放を成し遂げたのである」とし、「宗教が政治・市民アイデンティティの一部であるかのような」大統領の発言に懸念を表明した[129]。, 哲学者のカトリーヌ・カンツレール(フランス語版)は、「ライシテに関するサルコジの個人的な見解については彼の著書に書いてあるから知っているし、一人のライックとしてこれに異議を唱えるつもりもないが」、「共和国大統領として公にこのような発言をしたことにショックを受けた」とし、さらに、「積極的差別という言葉を想起させる」「積極的なライシテ」という概念は「ライシテの概念を骨抜きにする。なぜならば、ライシテとは必然的に消極的でミニマリストだからだ。ライシテとは、政治関係を築く上で「何も信じる必要はない」ということである」と反論した[130]。, 中道派のフランソワ・バイルーは、「フランスでは不可能な国家と宗教の混同への逆戻りだ」と批判した[131]。, 「キリスト教徒ライシテ監視機構 (Observatoire chrétien de la laïcité)」は、「(サルコジ大統領が)我々の国のカトリック以外の宗教、不可知論および無神論の精神的・人道的・文化的な貢献を考慮せずに、誰もが抱く希望が宗教においてのみ実現されると考えるのは」「とんでもないことだ」と批判した[132]。, 言語学者のジャン=クロード・ミルネール(フランス語版)、ジャーナリストのカロリーヌ・フレスト(フランス語版)、作家のアンリ・ペニャ=ルイズ(フランス語版)らが2008年2月26日付の『リベラシオン』紙に「ライシテを救え」と題する記事を掲載し、「共和国大統領はライシテに対して容赦ない攻撃を仕掛け、これを乱暴かつ全面的に問い直そうとしている」と批判した[133]。, 教育連盟(フランス語版)もネット上に「共和国のライシテを守ろう」という請願書を掲載し[134]、3か月間に約15万人の署名および哲学者、労働組合その他の計145団体の支援を得て当初の目標を達成した。, アンリ・ペニャ=ルイズによると、サルコジは共和主義的ライシテについて、5つの重大な過ち・誤謬を犯している[135]。, (注記:なお、比較のために例を挙げるなら、フランスではライシテ原則に基づき、靖国神社問題におけるように公人が公人として特定に宗教に参加(参拝、寄付、奉納等)することは禁止されており[136]、米国の大統領就任式におけるように聖書に手を置いて宣誓することもない[137]。), 一方、バチカンではジャン=ルイ・トーラン(フランス語版)枢機卿が「この積極的なライシテは、宗教に危険性ではなく、むしろ可能性を見出すものである」とし[138]、神学者のジャン=ミゲル・ガリーグ (Jean-Miguel Garrigues) も、「このライシテに関する公式見解により、フランス共和国とカトリック教会の真の関係がようやく明らかになった」と、サルコジの発言を歓迎した[139]。, 2008年1月14日、サルコジはサウジアラビアの首都リヤドを訪れ、アラブ世界との関係について見解を述べた。この演説では「一人ひとりの思考と心のなかにいる超越的な神」、「人間を服従させるのでなく、解放する神」と「神」という言葉を繰り返し、「神」は「人間の法外な傲慢と狂気に対する防波堤」だと主張した。さらに、ラテラノでの演説に対する批判を踏まえて、「私は政教分離原則に基づく国家の元首として、個人的な好みにより宗教に優劣をつけることなく、すべてを尊重しなければならない。私は、ユダヤ人であろうと、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、イスラム教徒であろうと、無神論者であろうと、フリーメイソンであろうと、合理主義者であろうと、各人がフランスで生きることに幸福であると、自由であると感じ、各人の信念、価値、出自が尊重されていると感じるようにしなければならない」と、カトリック教会との絆を強調したローマでの演説から一転して、「多様性の政治」の必要性を訴えている[140]。, レジス・ドゥブレは、サルコジの神への繰り返しの言及、「神は人間の法外な傲慢と狂気に対する防波堤」だという言葉に対して、「自分を超えるものを求める人間はすべてあの世を見なければならないのか」と皮肉り、さらにこれが政府の責任逃れになる可能性を指摘した[141]。, 1か月後の2008年2月13日に開催された在仏ユダヤ系団体代表協議会(CRIF)の年次晩餐会での演説では、ラテラノでの演説に対する批判について、「私は断じてライシテの道徳が宗教道徳に劣るとは言っていない。両者は相補的だと思っている」とし、さらにラテラノでの演説の「価値を守り伝え、善悪を教えることにおいて、小学校教員は決して司祭や牧師の代わりにはならない」という発言については、「私は断じて小学校教員が司祭やラビ、イマームに劣るとは言っていない」、教師は「正直、寛容、尊重からなるライシテの道徳」を教え、宗教者は超越性を示すという具合に、子供に教える内容が違うだけだと説明し、さらに、ナチズム、共産主義、全体主義を「神なき世界」とし、「子供たちは、教育・人間形成の過程において、精神の問題や神の次元にまで目を開いてくれる、熱心な宗教者に出会う権利がある」と強調した[142]。, 2008年9月、教皇ベネディクト16世がルルドの聖母出現150周年を祝うためにフランスを訪問した際に、パリでサルコジ大統領の歓迎を受けた。このときのサルコジの演説は、ラテラノの演説の延長線上にあるが、「カトリック」という言葉は敢えて使わず、「民主主義のため、ライシテを尊重するために、諸宗教、とりわけ我々が長い歴史を共有するキリスト教との対話」、「開かれた」「積極的なライシテ」が必要だと訴えた[143]。, これに対して教皇は、「ライシテの真の意味と重要性について再検討が必要であると心底確信している。というのは、市民の宗教の自由および市民に対する国家の責任を保障すると同時に、良心の育成において宗教のみが果たし得る役割をより明確に自覚することが必要不可欠だからである」と語った[144]。, 2010年10月、バチカンを公式訪問したサルコジは、教皇ベネディクト16世と会談した後、サン・ピエトロ大聖堂の聖女ペトロニラの祭壇の前で「フランスのための祈り」を捧げた。これを執り行ったのはジャン=ルイ・トーラン(フランス語版)枢機卿である[145]。なお、聖女ペトロニラは「ペトロ(=岩=教会)の娘」、「カトリック教会の長姉」という連想によりフランスの守護聖女とされ、サルコジはラテラノの演説でもこの点を強調していた。, 社会党のフランソワ・オランドは、それまでの大統領と違って無神論者あるいは不可知論者であり、「神は存在するというより、むしろ存在しないと確信するようになったこと」が、人生における一つの重要な節目になっていると言う。また、「個人的には宗教を実践していないが、すべての信仰を尊重する。私の信仰は信仰をもたないということである」と述べている[146]。ジャーナリストのジェローム・アンシベロによると、「(オランド大統領は)ライックだが、ライシテ強硬派ではない。こうした問題については大統領という立場から発言を控えている」[146]。2014年に大統領としてバチカンを訪問しているが、宗教やライシテについての話し合いや発言はなかった[147]。彼はむしろ、「宗教と一定の距離を保つことで、良好な関係を維持していた」[148]。, エマニュエル・マクロン大統領は、2016年7月にイスラム過激派テロリストに殺害されたジャック・アメル(フランス語版)神父の追悼ミサに参加したが、国家元首として追悼ミサには参加するが、中立性を維持するというシャルル・ド・ゴールの立場に近いとされる[149]。同様の理由で、2017年12月にマドレーヌ寺院で執り行われた国民的歌手ジョニー・アリディの追悼ミサでは、棺の前で十字を切らなかった[150]。, 2018年4月9日、マクロン大統領は「コレージュ・デ・ベルナルダン(フランス語版)(中世に修道士のための神学校として建てられ、現在は文化施設および神学教育施設)で行われたフランス司教協議会での演説で、初めて信仰に対する彼なりの見方を示し、「ライシテは宗教性(霊性)を否定するものではない」「我々はカトリック教会と国家の絆が損なわれたという印象を抱いており、これを修復することがあなたがた(司教)にとっても私(国家元首)にとっても重要である」と語ったことで、とりわけライックな左派から、「国家元首の義務に背く」、「ライシテに違反する」、「ライシテに対する攻撃である」などの猛烈な批判を受けることになった[151][152]。, 左派政党「不服従のフランス (France insoumise)」のジャン=リュック・メランション党首は「形而上学的なたわごとだ、耐え難い。大統領の話を期待していたら、聖職者の話を聞くことになった」、アレクシス・コルビエール(フランス語版)は「ライックな共和国の大統領にふさわしくない発言、宗教的共同体主義を再燃させるような無責任な発言だ」、クレマンティーヌ・オータン(フランス語版)は「ライシテ法をいともいとも簡単に踏みにじった。非常に懸念される」、さらに歴史学者・社会党員のダヴィッド・アスリーヌ(フランス語版)[153]も、「既に1905年に(教会と国家の)絆は絶たれている。損なわれたのはなく、幸いにも断ち切られたのだ。マクロン大統領、あなたは攻撃を仕掛けてくる共同体主義から共和国のライシテを守る立場にありながらこのような発言をした。ことの重大さがわかっていますか」と厳しく批判した[154]。, ただし、一方で、オランド政権下で2013年に特にカトリックの猛反対に遭いながらも同性婚合法化法案が可決されて以来[155]、カトリックとの関係が悪化し、マクロン政権下でも生殖補助医療の規制緩和を進めていることから[156]、カトリックに対する懐柔策であるとの見方もある[157][158]。, 2018年6月にはバチカンを訪問し、ラテラノ大聖堂の名誉参事会員の称号を受けている[159]。, マクロン政権下では特に2018年から宗教法人の運営の透明性強化およびヘイトスピーチ対策の強化を目的として、ライシテ法との関連におけるイスラム教団体の位置づけを再検討している。問題は、イスラム教団体の約90%が1905年のライシテ法による宗教団体としてではなく1901年法による文化団体として登録されているために、ライシテ法による厳格な規制が一部適用されないこと[160][161]、また、運営の不透明さが共和国法を遵守しない宗教団体がはびこる原因になっていることであり、政府は今後、ライシテ法による宗教団体としての登録を促すと同時に、刑法典および一般租税法典の一部改正による対応も併せて検討し、2019年第2四半期に法案を提出するとみられている[162]。, フランス革命 (1789-1799) 期に、共和制への従属を拒否し、ローマ教皇への忠誠を誓ったカトリック聖職者の多くが処刑。, 1801年、ナポレオン1世とローマ教皇ピウス7世の間でコンコルダ(政教条約)が結ばれ、カトリック教会、プロテスタントのルター派教会・カルヴァン派教会、ユダヤ教会が公認され、信教の自由が確立。, 復古王政ブルボン朝 (1814-1830) においてカトリックが再び国教として復活。, 七月王政 (1830-1848) から第二共和政 (1848-1852)、第二帝政 (1852-1870)、第三共和政 (1870-1940) の初期に至るまで、カトリック勢力と反教権勢力の対立が続く。, 1850年のファルー法(フランス語版)により国家による私立学校への財政援助を制限付きで認める[163]。, ジャン・ボベロは、フランス社会における宗教の影響力の減少を意味する「セキュラリザシオン (sécularisation)」という意味は「ライシザシオン (laïcisation)」と異なるものではないが、あまりにも外延的すぎると批判しながら、フランスの世俗化は、紛争を調停するために、常に国家という外部の力によって推し進められたきた点に着目している(満足 2004, ボベロ 2009)。, 「ライシテ監視機構」は首相直属の機関で、ライシテに関する政府の政策を助けることを目的としている。起源はシラク政権にまでさかのぼるが、オランド政権下の2013年4月に設立された。, 自由 (Liberté)、平等 (Égalité)、友愛 (Fraternité), Quels sont les principes fondamentaux de la République française ? 風刺雑誌『シャルリー・エブド』の本社襲撃やパリの劇場でのテロ、そしてニースでのトラックの突入──と、フランスはテロに狙われるつづけている。自らがテロの標的である政治学者が理由を語る。, 近年、フランスではイスラム過激主義に心酔した青年たちによるテロが相次いでいる。2015年1月の風刺雑誌『シャルリー・エブド』のテロ(17人死亡)、同年11月の劇場やレストランでのテロ(130余人死亡)、昨年7月、ニースで突っ込んできたトラックによるテロ(86人死亡)はまだ記憶に新しい。今年4月末には大統領選直前に警察官がイスラム原理主義者に殺害された。, なぜこんなにも頻繁にテロが発生しているのだろうか。自分自身がテロ実行犯の殺害リストに名前を挙げられ、24時間警護態勢下にいる政治学者ジル・ケペル氏にパリで話を聞いた。, ──**『グローバル・ジハードのパラダイム──パリを襲ったテロの起源』(日本語版は6月26日発売予定、版元は新評論)のオリジナル・フランス語版は2015年末に出版された。この年の11月に起きたパリ大規模テロを予測していたかのような出版となったが。**, 11月13日にテロが起きることを知っていたわけではない。しかし、なぜフランスでテロが多発するようになったのかについてここ3年ほど調査をしていたので、パリ・テロには驚かなかった。, 新刊では、フランスのジハード(イスラム教の聖戦)運動がいかに醸成され、それが中東情勢とどう結びついているのか、2005年以降、欧州が西側諸国の弱点となっていること、またイスラム教自体がどのようにフランスで展開していったのかについて、深く分析した。, フランスのテロの状況を理解すれば、世界各地でなぜイスラム系テロが起きているのかを理解できると思う。フランス語版は2015年時点の話だったが、英語版と日本語版は昨年12月、ドイツのクリスマスマーケットで発生したテロを含めアップデートされている。, ──**「2005年以降、欧州が西側諸国の弱点となった」というが、この年に何が起きたのか。**, いくつかの偶発的な出来事があった。この年、(イスラム過激集団「アルカイダ」の一員)アブ・ムサブ・アルスーリが『地球的なイスラム主義の抵抗への呼びかけ』(A Call for Global Islamic Resistance)と題する本をネット上にアップロードした。神の名において攻撃を行うことを若者たちに呼びかけた。イスラム過激集団「アルカイダ」はヒエラルキー型で上から指令を出す形だったが、こちらは下からの、ボトムアップ方式での運動だ。, 同じ年にフランス各地で若者を中心にした大規模な暴動が発生した。暴動がすぐにテロに結びついたわけではない。テロ計画は刑務所で育まれた。刑務所はジハード運動を生み出す大きな培養器となった。, 中東では「アラブの春」と呼ばれる反独裁政権運動が広がり(2010年末~2011年)、世界各地で破壊的な状況が生じた。アラブ世界がより民主化されることを多くの人が願ったが、リビア、チュニジア、マリ、シリア、イエメンは大混乱状態となった。欧州からこうした国にほんの100ユーロ(約1万2000円)もあれば行ける。, そこで、数千人規模の欧州に住む若者たちがイスラム過激集団「イスラム国」(IS)の一員として戦闘に参加するために現地に出掛け、そこで戦闘訓練を積み、母国で攻撃を開始するために戻ってくるようになった。, さらに、2000年ごろからサラフィー主義(注:イスラム教スンナ派の思想。厳格な復古主義が特徴でイスラム国家の建設を求める)というイデオロギーが広がっていた。, 確かに多発している。2015年1月、風刺雑誌『シャルリー・エブド』の編集部が攻撃されてから昨年7月26日にジャック・アメル神父がミサの最中にISに心酔した青年らにのどを切り裂かれて亡くなった事件までの間に、239人がテロによって命を落とした。, まず、フランスはEUの中でも失業率が高い。若者層に限るとドイツや英国よりもはるかに高い。そして、雇用市場に入りにくく、流動性が低い。, このため、移民の子どもたちが住み、失業率が40%近くにも達する「郊外」(「banlieue=バンリュー」と呼ばれる)の住民の間に疎外感が生まれている。, その一方で、イスラム教徒ではない国民も同様の疎外感を持っている。反移民の極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン氏に大統領選で票を投じるような人々だ。彼女に投票するのは仕事がないからだ。親の世代よりも自分たちは生活の水準が低下していると感じている。, イスラム過激主義に向かう人々と、非イスラム教徒でルペン氏に投票するような人々が並行して存在している。互いに対立する立場にあるものの、疎外感という点では共通する部分がある。, 2つ目の要因はフランスが植民地の宗主国であった点だ。現在のフランスはフランス共和国であると同時に、かつての植民地アルジェリア、モロッコ、セネガルとつながっていた過去がある。元植民地出身者の子どもたちが、今フランスに住んでいる。, 父親たちは自国を再建するため、フランスに移民労働者としてやってきた。1970年代半ばになって産業構造が変わり、職を失った。しかし、自国には戻らずここにい続け、家族を本国から呼び寄せるようになった。, フランスはかなり大きな移民人口を抱えている。高等教育に進んだ人もいるが、大部分はそれほど高い教育を受けていない。教育の程度が高くなく、雇用を見つけにくい若い移民出身者の層がだいぶん存在している。, こうした人々は、社会的な不正義が行われている、植民地時代の名残に責任があると感じるようになる。, たとえば、2012年、南西部トゥールーズのユダヤ人学校での銃殺事件を思い出していただきたい。実行日は3月19日だった。この日はアルジェリアの独立につながる休戦協定の実施からちょうど50年だ。, 実行犯となったアルジェリア系フランス人モハメド・メラーの家族は、フランスを嫌っていた。彼はジハードの形でフランス本土でアルジェリア戦争を勃発させたともいえる。, 逆にフランスは、どちらかというと外からの移民を多く受け入れてきた国だ。たとえば私がそうだ。私の両親はチェコスロバキアの出身だ。, フランスにやってきた人は、「フランスとの協定」を結ぶ。これを受け入れた人は誰であろうとどんな肌の色だろうと、フランスの学校に通い、フランス共和国の集団としての価値観を受け入れる限りは、たとえどんな差異があったとしても、フランス人になれる。, ところが、仕事を見つけられず、将来に明るい展望が描けず、この「協定」を受け入れられなくなっている人がいる。自分のアイデンティティはイスラム教徒であること、あるいは白人のフランス人であることに慰めを見いだす。互いに共通点よりも、いかに他人と違うかのほうを重要視する。, イスラム過激主義の議論が公的言論空間に出てくるようになり、影響を受ける人も出てくる。, ──北アフリカなどからの移民はフランス社会に十分に融合していないと言えるだろうか。, まったくそうは思わない。一般的に言えば、移民出身者は社会に非常によく融合していると思う。私自身も含めて北アフリカ出身者を妻にしている人も多いし、中高年となる私の世代で言えば、移民出身者と非移民出身者の間の交流は活発だと思う。, 目的は非イスラム教徒の国民に向けての挑発だ。テロによって非イスラム教徒の国民が反撃を開始し、(イスラム教徒の礼拝所)モスクを破壊し、攻撃計画を実施してゆくことを期待している。欧州で極右支持者や人種差別主義者が増えれば増えるほど社会が分断され、イスラム教徒の国民が自分たちを支持するだろうとジハード実行者たちは想定する。, ──新刊の中で、教授はジハード戦士の狙いを「幻想」と呼んでいる。テロが起きても、欧州各国の政府は戦士たちが期待しているような対テロ戦争を勃発させたりはしていないからだ。, フランス当局が計画が実行される前にその芽を摘み取ってきたからだ。巨額の資金と人的資源をテロ防止につぎ込んできた。テロリスト予備軍が用いるソフトウエアのコードを解明したのだと思う。以前は実行犯がネットで情報網を広げていることを十分に理解していなかった。, シリアとイラクに拠点を置くISが爆撃やドローン攻撃で弱体化傾向にあるのも理由だろう。, フランスの近年のテロ事件の画策に多く関係していたラロッシ・アバーラ(昨年夏に警察官の妻を含む3人を殺害)は私に死の宣告を行った。そのために私は今、24時間警察の警護態勢下にあるが、彼は今年2月、米軍のドローン攻撃で殺害されている。, 今でも戦士をリクルートするコンテンツはネット上にあるが、ISは手段が不足している状態だ。自分たちの命を守ることに必死だし、イラクで戦っている最中だ。西欧でのテロ計画を立案する時間があまりない。, そうなるはずだ。シリアと欧州を行ったり来たりすることが簡単だった時には、シリアに行って、帰ってきてバタクラン劇場(2015年11月のテロの発生場所)でテロを行うことができた。ベルギーに戻って、パリに来て自爆テロを行う、ということが。, しかし、いまやこれが難しくなった。いったんシリアに行ってしまうと、抜け出すことが難しい。, ジハード疲れもあると思う。テロにも効率性が求められる。人を殺すだけだったら、難しくはない。 しかし、一般大衆からの支持を喚起するのは簡単ではない。, マクロン新大統領の課題になるが、まず教育体制を立て直すことだ。きちんとした教育を受けるようになれば、経済の再建にもつながる。教育を受けて仕事を見つけられれば、何でもできる。, 2つ目は、何が起きているのかについてもっと知識を持ち、理解を深めることだ。中東研究はフランスでは最優先されていない。官僚主義の弊害だ。, 欧州が世界の中でこのまま存在感を薄れさせていけば、ジハード戦士や極右あるいは外国人嫌いを表に出す政治勢力が伸長してしまうことにつながる。英国のEUからの離脱(ブレグジット)がそうだし、オーストリアでもオランダでも極右政治勢力が力を伸ばしている。フランスにはルペン氏がいる。, ──最後に、ライシテ=世俗主義について聞きたい。昨年夏、イスラム教徒の女性が海辺で着用するブルキニ問題が発生した。フランスの海辺の自治体が一斉にブルキニ着用を禁止した。フランス以外の国では、あまりにも行きすぎではないかという声が出たが。, ブルキニ問題は、昨年7月14日、当時最後の大量の死者が出たまさにその場所となるニースで起きた(注:イスラム教過激主義に心酔した青年がトラックで歩道者に向かって突っ込み、86人が命を落とした)。86人のうち、30人はイスラム教徒で、誰しもがその死を悼んでいた。, ニースの事件からほんの数日後、海岸でブルキニを着ている女性たちがいた。地元の自治体はパニック状態になった。条例などを使ってブルキニ着用を禁止した。法的根拠があったわけではなかった。しかし、また攻撃があるのではないかと市民がおびえていたため、着用禁止令が必要だと考えたからだ。, このとき、イスラム主義の組織「ムスリム同胞団」やイスラムフォビアをなくすための団体がこう言いだした。「フランスは239人をテロで失った犠牲者だったが、ブルキニの1件で、一晩で犯罪者になってしまった」と。「世俗分離主義が厳格すぎた」。, こうした団体は、テロの犠牲者を忘れるような文脈を作っていた。重要なことは、「ブルキニの着用を禁止された自分たちが犠牲者となったことだ」と。「239人の死者のことは考えないようにしよう、ブルキニのことを考えよう」。, 論理が破綻している話だが、米ニューヨークタイムズを含む多くのメディアがこの論理にひっかかってしまった。, ライシテが原則となる社会では、キリスト教徒であろうと、ユダヤ教徒であろうと、無神論者であろうと、あなたがどんな宗教を信じているか、あるいは信じていないのかはほかの人には関係ない。宗教の帰属(あるいは非帰属)を公にする必要はない、重要なことではないと考える。, 重要なのは、私だったら、教授であること、学生に教えていること、本を読み、本を書くこと──これが私の定義となる。, 自分はカトリック教徒のフランス人で、チェコ出身の両親がいるから、この洋服をこんな風に着てほしくない、そういう洋服の着方は私を侮辱するからだ……と私が言い出したり、ほかの人が言い出したらどうなるか。社会はバラバラに分断されてしまう。小さな分断されたコミュニティができてしまう。たとえば多文化主義の英国が今そうなっている。表面的には静かで何も問題がないように思えるかもしれないが、まったくそうではない。国が決定的に分裂してしまうと思う。, ジル・ケペル(Gilles Kepel)1955年生まれ。フランスのエリートを教育するパリ高等師範学校やパリ政治学院で教える。イスラム主義、現代アラブ世界関連の著書多数。アラビア語の文献を読み込み、幅広い現地調査と徹底した事実の積み重ねによる鋭い分析で知られる。新刊は『グローバル・ジハードのパラダイムーパリを襲ったテロの起源』, ※2014年3月31日以前更新記事内の掲載商品価格は、消費税5%時の税込価格、2014年4月1日更新記事内の掲載商品価格は、消費税抜きの本体価格となります.