第二次世界大戦が始まる前に、ドイツではナチスが台頭して国が大きく変わっていきました。ナチスの台頭はナショナリズムに繋がり、ドイツの各都市では非ドイツ的な書物が焼かれました。ベルリンでは1933年にフンボルト大学(当時はフリドリヒ・ヴィルヘルム大学)の前の広場で多くの書物が焼かれています。こうしたナチス台頭期のナショナリズムへの反省として、現在同じ広場にシンボリックなモニュメントが設置さ … 「プラハの春」の続編。「プラハの春」直後からベルリンの壁崩壊まで約20年。非人間的な体制を強いられた東ドイツに住む女性と日本人外交官とのロマンスが、東欧の激動時を舞台に大きな歴史の流れと … 東西ドイツが統一されてから25年以上が経ち、今では、ドイツが東西に分裂していた歴史を具体的に見られるチャンスは少なくなっています。寸断されていた道路や地下鉄などは復旧し、東西ドイツ分裂の象徴として残されているのは、「ベルリンの壁」くらいになってしまったかもし… 壁の建設は社会主義の世界的評判にとって打撃であることを彼は十分認識していたが、一方で東から西へ大量の人口流出に対策を早急に打たなければ東ドイツ経済が完全に崩壊するのは目に見えていたためである。人口流出を防ぐためには空路の遮断か壁の建設の二つだが、前者は米国との武力衝突を招きかねなかったのである[29]。, ウィーン会談の決裂をきっかけとして、フルシチョフは壁の建設とベルリンの交通遮断を認めた。しかし、会談で通告した東ドイツとの平和条約締結は10月に撤回している。東ドイツへの影響力を保持するには現状のままでベルリン問題へのソ連の主導権を確保することが得策であることに気づいたからであった。やがて米ソ両国の主導権を握る地域を明確に分けて、お互いが干渉しない暗黙の了解が成立し、ベルリンの壁を建設し通行を遮断したことで、ベルリン問題はその後に固定化し、逆に状況は安定化に向かうことになる。, 6月15日にウルブリヒトは西側記者との会見に臨んだ。この時点ではまだ壁建設の了解をソ連から取り付けていなかったが、ウィーン会談の結果を聞いてウルブリヒトは壁建設に進めると確信していた。そしてこの日の記者会見で、東ドイツはブランデンブルク門の脇に国境を設けるのかという質問に対して「そうした壁建設の計画があるとは承知していない。我が国の建設労働者は住宅建設に忙しく、誰も壁の建設など考えていない。」と答えた。国境のことを聞かれて思わず壁について答えてしまったのである。しかし記者たちはそのことに気づかず、その後の展開を誰も予測していなかった[23]:61-62。, 翌月に壁の建設の了解をソ連から得たことで、ウルブリヒトは向後にソ連と平和条約を結び、ソ連の後押しで西ベルリンの「解放」に進めると考えた。, ウィーン会談でフルシチョフのベルリン問題についての言及に苦しめられたケネディ大統領は、その後ベルリンに差し迫った状況が訪れようとしていることを予感していた。アチソン外交顧問(トルーマン政権での国務長官)は、最も強硬な対応策を主張し、核戦争も辞さずとして国家非常事態宣言と戦時のような動員をかけるよう文書で大統領に提出した。しかしアーサー・シュレジンジャー特別補佐官は、この年の4月に行ったキューバのカストロ政権の転覆工作が準備段階で政治問題を過小評価して、軍事的及び作戦的な諸問題に注意を集中しすぎた結果失敗したピッグス湾事件の過ちを喚起して、2人のスタッフ(エイブラム・チェイズとヘンリー・キッシンジャー)とともに、別の案を作成した。この間は政権内部で強硬派と柔軟派との議論が沸騰していた[30][31]。, シュレジンジャー特別補佐官にとってアチソン案は、この危機を引返せないところまで押しやるリスクを含んでいることを危惧していた。それがピッグス湾事件の教訓であった。7月7日にケネディに自身の案を文書で提出した。アチソンの意見は最後の手段を検討しているが、危機が深まるまで交渉はせず、同盟国との協調もなく、軍事行動は述べてもその政治的目的は述べておらず、核戦争に踏み切る大義名分を練り上げることが不可欠であると書き入れた。それはアチソンの影響力を削ぐためであった[32][注 7]。, 7月8日にハイアニスポートのヨット「マーリン号」の中で、ケネディ・ラスク・マクナマラとテーラー軍事顧問が話し合った際には、ケネディは国務長官に声を荒らげて国務省の緩慢な対応に激怒していた。ケネディはこの時に国防長官にベルリンで衝突した場合の核を使用しない抗戦方法についての計画案の提出を命じ、核戦争への突入を避けるためにフルシチョフと語り合う時間を与える練り上げられたものでなければならないと述べた。このハイアニスポートのヨットでの会議から7月25日の大統領声明までの17日間の間に、アチソンの強硬な提案が少しずつ削ぎ落されていった[34]。, この後に7月13日と19日に国家安全保障会議が開かれた。とりわけ19日の会議ではアチソンとマクナマラとの間で意見の応酬が交わされて、結局アチソン案は見送られた。そして25日にケネディはテレビ演説を行った。, 「西ベルリンはコミュニストの海に浮かぶ自由の小島です。西ベルリンは鉄のカーテンの裏側の希望への灯です。(略)我々は西ベルリンの自由な人々を、我々の権利を、彼らの安全を維持しなければなりません。」と決意を表明して、国家非常事態の宣言ではなく、32億4700万ドルの国防費追加要請、陸軍兵力を87万5000人から100万人に増員、海・空軍の実践部隊の増員、そのための徴兵を3倍に増やし予備兵力を招集[35]し、ワルシャワ条約機構諸国に対する経済制裁を課すことを述べて、年内までに対ベルリンへの空輸能力を高め、ヨーロッパへの配備に6個師団を追加することも発表した[36]。, この演説において、ケネディは「西ベルリン」、「ベルリン」という語句を区別して使用していた。「西ベルリン」という単語を17回使用した。ベルリンの西部に手を付けない限り、ベルリンの東部は構わない、というメッセージに読めるものであった。この演説の前日に演説草稿文を読んだCIA高官ジェームズ・オドネルは、西ベルリンの安全保障ばかり繰り返しているとしてスピーチライターのセオドア・ソレンセンに文句を言っていた。ベルリンは理論上は4ヵ国の管理下にあるのだが、ケネディはソ連に東ベルリンでのフリーハンドを与えると伝えているようなものであった(この微妙なニュアンスについて、当時のマスメディアは全く気が付かなかった)[37]。, これより前に6月のウィーン会談で、アメリカ側の政府高官は首脳2人の会議録を読んで驚いていた。アイゼンハワー大統領まではヨーロッパが東西に分裂している現実についてのコメントは控えていたが、ケネディ大統領は分割されている現実を積極的に受け入れて、分割を受容可能で永続的なものと認め、しかも「世界に生起し勢力均衡に影響を与える変化は、米ソ両国が威信をかけた条約上の誓約に関わりの無い形で起こることが決定的に重要である。」とフルシチョフに語っていた。これはワルシャワ条約機構加盟国など東側に属する国にはアメリカの干渉はあり得ないことを示唆していることになるのである[38]。, そして8月初め、ケネディは冷静にフルシチョフの言葉を振り返って、ウオルト・ロストウ補佐官に語っていた。「フルシチョフは東ドイツを失いかけている。東ドイツを失えば東欧全体を失うことになる。だから難民流出を止めるために何か手を打つだろう。たぶん壁を築くことになるだろう。我々はそれを阻止できない。だが西ベルリンを守ることは出来る。しかし東ベルリンを塞がせないために行動することは出来ない。」[39]。, ケネディはフルシチョフがウィーン会談で突き付けた最後通牒を拒否し、西ベルリンについて、西側軍隊の駐留、自由な通行、自由な政治状況の保持の3点を要求したが、これは米国の関心が西ベルリンの現状維持に限られることを示すシグナルに他ならなかった[7]:96。, 1961年7月6日にフルシチョフがウルブリヒトに、「東西ベルリンの境界閉鎖」の決定を伝えた[26]。8月3日にフルシチョフとウルブリヒトはモスクワで細目の詰めを行った。この時にソ連と東ドイツとの平和条約を結ぶ件については、壁の建設が終わってからとして、フルシチョフは「西ベルリンと西ドイツを結ぶ地上ルートも航空ルートも妨害する如何なる行動を取ることを望まない」と述べて、ウルブリヒトは「難民流出に比べれば二次的な問題だ」として同意した。また実行に当たっては全ての作戦が厳密に東ベルリンの内側で行わなければならないとして、「1ミリでもはみ出してはならない」と釘を刺した。そして8月12日(土曜日)から13日(日曜日)にかけての夜間に実行することで決まった[40]。, と述べると、これを加盟諸国は異論なく受け入れ、自国の軍隊をソ連軍支援のために移動させることに同意した。しかし東ドイツへの経済的保証については加盟各国は西側とも貿易関係があったため、西側の経済的報復を恐れて同意には至らず、フルシチョフは憤然とした。そして加盟国からなぜ米国の軍事的反応をもっと心配しないのだ、との声があり、フルシチョフは「ケネディはライト級だ」と答えた[26]。実は、この時にフルシチョフは6月3-4日のケネディとのウイーン首脳会談でのケネディの言動やその後の7月25日の演説を検討しながら、感触としてケネディのスタンスは、ソ連や東ドイツがどのような行動を取ろうと、それがソ連圏内に限定される限り、そして西ベルリンへのアクセス権を妨害しない限りアメリカは干渉しないというもの、と考えていた[41]。, ウルブリヒトは東ベルリンに戻り、境界閉鎖そして壁の建設の準備の仕上げに入った。総指揮は党書記エーリッヒ・ホーネッカーであった。, この時、ベルリンで西へ逃れる難民の数は週1万人に達し、1日で2000人を超す日もあった[42]。8月4日、東ベルリンを管理するソ連軍政官は東ベルリンに住みながら西ベルリンに働きに出て行く人々に対して、氏名を登録して家賃と光熱費を東側通貨のドイツマルクで支払うように命じた。この週末の難民流出者は3268人に上った[43]。その後も流出者総数は8日に1741人、9日に1926人、10日に1709人、11日に1532人に上った。人民警察内部でも越境亡命者が後を絶たず、1959年で55人、1960年で61人、1961年はこの8月までで40人の流出が記録されている[44]。, 8月10日、イワン・コーネフ元帥が東ドイツ駐留ソ連軍の総司令官として派遣された。第二次大戦でのソ連邦英雄であり、ワルシャワ条約機構の初代司令官であり、フルシチョフが見込んでの派遣であった[45]。, 8月11日、東ドイツ人民議会は「ベルリンにおける報復主義的状況に対処するために東ドイツがとろうとする如何なる手段をも承認する」とした決議を採択する[46]。この時点では議員もその具体的内容は伝えられておらず、壁の建設を知っていたのは軍のトップと社会主義統一党(SED)のウルブリヒト第一書記周辺だけで、政治局委員や国家保安局(シュタージ)幹部でも知らされていなかった。それほどに機密保持が厳重であったがために、西側各国及び情報機関も感知できず、アメリカCIAが東側に配置した諜報員からの情報でも壁の建設は全く入っていなかった。この間は西側情報機関は、東側が現状への打開策を打ち出すことは十分予想はしていたが、その内容は予測出来なかった。まして壁の建設は想像してもまず不可能という判断で思いも寄らなかった。西ドイツ連邦情報局には少なくとも複数の情報から、ソ連がウルブリヒトの裁量に任せて何かの行動に出ること、そして地区境界線を封鎖されそうであること、柵を築くのに適した軽量な資材が蓄えられていること、作業の開始が分からないこと等の情報は入っていた。その情報は少数の党幹部だけが知っていた[47]。, 東ベルリンに支局を置いた唯一の西側通信社であるロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者は、たまたまこの人民議会の謎めいた決議について、党の宣伝担当責任者であったホルスト・ジンダーマン(後の東ドイツ首相)に聞くと、「この週末にベルリンを離れることを、私はしない」という答えが返ってきた。彼はそれから市内を取材して駅での警官の多さを見てから、事務所に戻り、「東ドイツは西ベルリンへの難民流出に関して、この週末に行動に出るだろう」という記事を世界中の新聞社に配信した[48][注 8]。, 8月12日は土曜日でいつもの休日であった。西ベルリン市長ウィリー・ブラントは社会民主党(SPD)の党首でもあり、9月に総選挙が行われるのでその選挙遊説でバイエルン州ニュールンベルクに出かけ、アデナウアー連邦共和国首相は同じようにリューベックに遊説に出ていた。マリーエンフェルデ難民収容所はこの日も多くの難民が押し寄せ、その数は最終的に2662人になった[49]。そして夜になってブラント市長は遊説先のニュールンベルクから夜行列車でキールに向かった[50]。オリンピックスタジアムに近い将校専用クラブではこの夜にダンスパーティーが開かれ西側外交団や軍関係者が参加していた[51]。, 午後4時に政治局会議が開かれて、ウルブリヒト第一書記から説明があり、討議はなく、したがって異議は無かった。会議後ウルブリヒトは指令書に署名しホーネッカーに執行を命じた。それからウルブリヒトは目立たないように、ベルリン郊外の迎賓館に行き、政府高官を集めた園遊会を夕方開いた。そして夜10時に参集した高官を一同に集めて、ウルブリヒトは「東西ベルリン間は今から3時間以内に閉鎖される。東ドイツ保安部隊にこの行動を私は命じた。まだ開いたままの境界を今後適切な管理のもとに置くための行動である」「ついては、この命令書に閣僚諸君は署名してもらいたい」と語った。閣僚たちはこの時初めて壁の建設の計画を知った[52]。, 数十台のトラックが数百のコンクリート柱を東ベルリンのパンコウ地区の警察営舎の備蓄場に集めていた。東ベルリン郊外のホーエンシェーンハウゼンの国家保安省の広大な敷地に東ドイツから数百人の警察官が集まっていた。彼らは事前に角材4本を組み合わせた木製の妨害物を作った。これに釘や留め金を打ち込み、有刺鉄線を張るためである。東側は、三重の包囲線を敷いていた[53]。, 13日午前1時、東ドイツ警察隊本部は二つの指令を発した。1時5分にブランデンブルク門に国境警察隊が現れた。1時11分にロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者のオフィスにワルシャワ条約機構加盟諸国の「西ベルリン全領域の周囲に確実な保護手段と効果的管理を構築する」旨の声明が届き、急ぎ車を走らせてブランデンブルク門に向かったが、途中で警官に止められて「境界は閉鎖されました」と伝えられた。すぐにそこを離れて支局に戻り、「東西の境界線は本日、日付が改まると同時に閉ざされた」と世界中に配信した[54]。この時に東ドイツ政府は東西ベルリン間の68の道すべてを遮断し、有刺鉄線で、最初の「壁」の建設を開始し始めていた。午前1時30分、東ドイツ当局は全ての公的輸送を停止した。東西ベルリンを結ぶフリードリッヒ通り駅では西ベルリンから来た全列車の乗客の降車を許さず、各駅で列車の線路を破壊して有刺鉄線を張り拡げていった[55]。その時に西側3ヵ国の兵はまだ寝入ったままであった。, イギリス特使団政治顧問バーナード・レドウィッジは、将校専用クラブのパーティーから遅くに帰宅して寝る準備に入った時に、英軍憲兵隊から電話で列車の深夜運行の中止、通信の遮断、検問所での道路封鎖の報告を受けた。急ぎスタジアム近くのオフィスに出向き、ロンドンに電話しそして至急電を送った。これが最初の正式な通知であった。レドヴィッジは、この作戦にそれほど驚かなかった。「絶対に何かあるとは感じていたが誰も推測出来なかった。情報源からは報告は無かった」と後年のインタビューで答えていた[56]。, 西ベルリン駐在の米国公使アラン・ライトナーは、午前2時に境界閉鎖の第一報を受ける。部下のスマイサーとトリンカが指示を受けて偵察に出向き、車でポツダム広場から東ベルリンに入ることが許可されて、約1時間東側を回りブランデンブルク門から西ベルリンに戻った。スマイサーの目撃情報からライトナーはソ連軍がこの作戦に直接役割を果たしていないことでアメリカにとって軍事的脅威でないと考える一方で、東ドイツの軍隊を東ベルリンに入れることを禁止している4ヵ国協定に違反していることも念頭に置いた。午前11時にラスク国務長官に最初の詳細な報告を打電した。「東ベルリン住民が西ベルリンへ入ることは妨げられた」「東の経済的損失と社会主義陣営の威信を失う難民流出に対処する措置である」と述べて、夜に次の電報を打電した時にはソ連軍の動きにも言及し、直接の介入は無いがかなりの規模で動員したことは東ドイツ軍の信頼度について疑念を持っていることも付記し、また西側の軍関係者及び文民公務員は東へ自由に出入りしていることも付け加えた[57]。, ほぼ午前2時すぎから各地区に配置した労働者階級戦闘団から準備完了の連絡が相次ぎ、午前3時に警察本部は内務省への第1回目の報告を行い、その後1時間ごとに報告を続けた。3時25分にUPI通信が速報を配信した[58]。午前4時、ブラント市長の乗った列車はキールに向かっていたが途中のハノーファーに到着後に連絡が入り、急ぎハノーファーで降りてタクシーに乗り空港に向かった。午前4時30分にアデナウアー首相は首都ボン近くの自宅で就寝中に起こされて状況を知らされた[注 9]。ブラント市長が急ぎ西ベルリンに向かったのに対しアデナウアー首相は西ベルリンにすぐに行くことはなかった。フランスのドゴール大統領はパリ南のコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーゼの別荘でいつものように週末の休暇でやはり就寝中にクーヴ・ド・ミュルヴィル外相から電話で事態を知らされた。ドゴールはその時に「これで、ベルリン問題に片が付く」と語ったといわれる[59]。, この頃にアメリカのスマイサーとトリンカは偵察を続けフリードリッヒ通り駅に到着した。まだ深夜であったが数十人の乗客(女性・子供・老人ら)がプラットホームに上がろうとして警官に押し戻されて、トリンカは後に「これが最後のチャンスと思ったのだろう。全ておしまいだと悟り、涙を流していた。」と語っている。駅構内には12日付で党中央委員会からの命令書が張り出されていた[60]。, ベルリンの東西を運行する都市鉄道の以下の路線は運行を停止する。 ベルリンの壁の歴史:建設理由からベルリンの壁崩壊までを詳しく見ていこう. まず、今回ご紹介するベルリンには二つの空港があります。 ベルリン・テーゲル空港とベルリン・シェーネフェルト空港です。 あと数年のうちに統合されるとの話もありますが、現状ではどちらの空港を利用するにしてもバスやタクシー、鉄道など移動手段は豊富にあるので観光地に向かうのに困ることはあまり無いでしょう。 効率よく巡れば2、3泊でも十分回りきれるはずです。 では、これからじっくりと国際都市ベルリンの魅力的な観光地をご紹介していきましょう! 【ベルリンの壁へ】ドイツ東西分断の歴史を知る . → 冷戦時代のベルリン問題. 【ベルリン】 1989年、壁が崩壊したことから、再びドイツの首都となったベルリン。現代では、モダン建築ラッシュが続き、アーティスト注目のデザイナーズタウンに変貌しつつあります。 ベルリンは360万人が住むドイツの首都です。 今でも東西分断の歴史を物語るベルリンの壁の一部が残されており、ナチスの犠牲になったユダヤ人や東と西の争いに翻弄された市民の当時の生活を紹介する博物館が市内に点在します。 そのためベルリンの壁は西ベルリンを囲う形で築かれ、その全長は約160kmに及ぶものとなっていたのです。1989年にベルリンの壁が崩壊して、その翌年にドイツは再統一しています。これによって壁は無用の長物となり、そのほとんどが撤去されています。 ドイツ歴史博物館 (英語版) はかつてのツォイクハウス(兵器庫)に2006年春に拡張再開され、1989年のベルリンの壁崩壊を通じたドイツの歴史を概観することが出来る。バウハウスアーカイブは建築の博物館になっている。 ドイツ歴史博物館 (英語版) はかつてのツォイクハウス(兵器庫)に2006年春に拡張再開され、1989年のベルリンの壁崩壊を通じたドイツの歴史を概観することが出来る。バウハウスアーカイブは建築の博物館になっている。 【ベルリンの壁へ】ドイツ東西分断の歴史を知る. ベルリンといえばまず最初に思い浮かぶのが「ベルリンの壁」という方が少なくないと思います。壁崩壊から30年近く経った今でも、ベルリンのいたるところで実物を見ることができます。ベルリンらしいお洒落なカフェやショップ巡りの間に歴史を学べば、よりベルリン観光を楽し… なぜ人びとは壁に慣れてしまったのか? その壁がどうして、1989年に倒れたのか? 建設から倒壊までの、冷戦期の壁の歴史を、 壁のことをよく知らない若い人にむけて、 簡潔かつ明瞭に解き明かす。 写真を多数掲載。 1989年、ベルリンの壁は倒壊しました。 戦争の傷跡を残すモダンとレトロのベルリン。東西ドイツ統一のシンボル、ブランデンブルク門やベルリンの壁、東ドイツを象徴するテレビ塔は足を運びたい。また世界遺産に登録されている博物館島は、長い歴史をもつ5つの博物館が建ち並ぶアートスポット。 今回は、東西ドイツ分裂の象徴「ベルリンの壁」の歴史とベルリンの壁について学べる場所を紹介します。ベルリンの壁が崩壊して、早27年。ベルリンの壁を知らない人たちも増えてきました。しかし、平和の大切さを考える上で、ドイツを訪れたらベルリンの壁はぜひ訪れたいスポットです。 ドイツ統一後、歴史の記憶を再確認する声が高まったことにより、ナチス政権の非行の数々の記録をきちんと後世に残し、歴史を繰り返さないためドキュメントセンターが新たに跡地に建設されました。 展示室には、主に写真や書類等の記録物が展示されており、ナチス政権がどのようにして� ドイツクリスマス、ベルリンですから壁で. ベルリンの壁は、歴史による警告を示すために現在も一部残っている。 先に上げた旧西ベルリンの位置を思い出してほしい。 東西ドイツ分断時代の西ベルリンは、 周りを東ドイツに囲まれていたため、電気を輸入するほかなかった 。 第2次世界大戦の敗戦を受け、ドイツはアメリカとフランス、イギリス、ソ連の4か国によって統治されることになりました。米仏英によって統治されたのが、資本主義の西ドイツ。そして、ソ連による統治を受けたのが、社会主義の東ドイツ(ドイツ民主共和国)でした。 ベルリンは東ドイツ領内に位置していましたが、ドイツ統治の要とみなされたことから、西ベルリンは米仏英、東ベルリンはソ連によって共同管理されること … 1961年から30年近くにわたり、街を東西に分断していたベルリンの壁。崩壊から20年余りが経過した今も壁に関するスポットが数多く残る。 イーストサイド・ギャラリー Eastside Gallery. 約5000人は捕まり、200人近くが、射殺。しかし、東ドイツの崩壊で、ベルリンの壁が不要になりました。分断から40年、ドイツは、ようやく1つになりました。それから1か月後、アメリカと旧ソ連の冷戦にも終息宣言が出されました。 西ドイツと東ドイツ第二次大戦で、ドイツは第二次世界大戦末期に国内で地上戦を展開された。アメリカ、フランス、イギリスは東から西に向かい、旧ソ連は西から東へ侵攻した。そのため、戦後はエルベ川から東側はソ連、西側はアメリカ、フランス、イギリスによ 壁崩壊から30年たった今もなお人々の心に深く刻まれる東西分断の歴史。波乱の20世紀世界史の中心舞台となったベルリンで、その歴史を肌で感じてみませんか? ベルリンの壁(ベルリンのかべ、独: Berliner Mauer)は、1961年から1989年までベルリン市内に存在した壁である。 ベルリンの壁記念センターを実際に訪れた旅行者が徹底評価!日本最大級の旅行クチコミサイト フォートラベルでベルリンの壁記念センターや他の観光施設の見どころをチェック! ベルリンの壁記念センターはベルリンで15位の博物館・美術館・ギャラリーです。 ベルリンの壁崩壊30周年を迎えますます人気を集めている「ベルリンの壁めぐり」。ここではイーストサイドギャラリーや壁博物館といった有名観光スポットから新しい施設まで、壁が見られる場所や壁にまつわるスポットを一挙ご紹介します。 ドイツの再統一は連合国内の関係悪化によって分断されたままとなる; 西ドイツと東ドイツの間に経済的な格差が生じる; 東側からの人口大量流出 ドイツ全体に壁があるならドイツの壁って呼ぶだろ… 41: 2020/10/21(水) 18:46:19.089 ID:FgOOG95SM 今は撤去されたけど、ベルリンだけでなく、東西ドイツ国境にも壁は作られてたよ。 Amazonでエトガー ヴォルフルム, Wolfrum, Edgar, 収治, 飯田, 明夫, 木村, 亮, 村上のベルリンの壁: ドイツ分断の歴史。アマゾンならポイント還元本が多数。エトガー ヴォルフルム, Wolfrum, Edgar, 収治, 飯田, 明夫, 木村, 亮, 村上作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。 2019年はベルリンの壁崩壊30周年を記念し様々なイベントが開催。1 11月4日から11月10日にかけては、ブランデンブルク門やアレクサンダー広場など歴史的出来事が起きた市内7か所で、プロジェクションマッピングを使い30年前の出来事が映し出されます。� ベルリンの壁崩壊により、1961年の壁着工から28年を経過して東西ドイツ分断の歴史は幕を閉じました。この年、ソ連陣営にあった東欧の共産主義国が次々に民主化を果たします。そして翌1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに吸収され、ついに統一ドイツが成立しました。 ドイツといえば有名なのがビール、クリスマスとニベア、それから『ベルリンの壁』だ。 かつてドイツを東西に分断していた壁は現在、歴史的遺跡として約1.3kmほどがベルリン市内に残されている。 Amazonでエトガー ヴォルフルム, Wolfrum, Edgar, 収治, 飯田, 明夫, 木村, 亮, 村上のベルリンの壁: ドイツ分断の歴史。アマゾンならポイント還元本が多数。エトガー ヴォルフルム, Wolfrum, Edgar, 収治, 飯田, 明夫, 木村, 亮, 村上作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。 ^ 吉田一郎『世界飛び地大全―不思議な国境線の舞台裏 (国際地理BOOKS (VOL.1))』社会評論社、Tōkyō、2006年8月1日。 ISBN 4784509712。 OCLC 169993462。 ^ a b ヒルトン 2007b, p. 24. 現地生情報ブログ ※外部サイトへ遷移します. ベルリンの壁に描かれたキスの絵は、ドミトリー・ヴルーベリによって1990年に制作され、ベルリンの壁崩壊後も周囲に描かれた他の作品とともに保存されたものの、破壊行為や大気条件、さらに落書きなどに晒されて徐々に劣化が進みました。 その結果、他の作品同様に2009年3月、このキスの絵も描いた作者による復元のために、一旦壁から消えることとなります。 そして、それぞれの作者には対価が支払われ、より耐久性のある塗料を使っての復元作業が行われたのです。 一方で、制作のスタイルにお … ベルリンの壁の崩壊から1年を待たずして、1990年10月に東西ドイツは再統一、ベルリンも再びひとつになります。 翌年には統一ドイツの首都となり、ドイツの政治の中心地としての確固たる立場を固めま … 今回は、東西ドイツ分裂の象徴「ベルリンの壁」の歴史とベルリンの壁について学べる場所を紹介します。ベルリンの壁が崩壊して、早27年。ベルリンの壁を知らない人たちも増えてきました。しかし、平和の大切さを考える上で、ドイツを訪れたらベルリンの壁はぜひ訪れたいスポットです。 しかし逆に考えると、生まれた時からもう、ベルリンの壁は歴史の遺物、となっていた人たちがもう30歳近いということでもあります。あっという間ですね。 ベルリンの壁は、全長155km。 本書エトガー・ヴォルフルム著『ベルリンの壁 ドイツ分断の歴史』(飯田収治・木村明夫・村 上亮訳)(洛北出版,2012年)はー原書自体は2009年のベルリンの壁崩壊20周年のタイミング で出版されたものだがー,このベルリン壁崩壊25周年という節目の年である2014年において, ― 56 ドイツの歴史的な建造物のひとつに、ベルリンの壁があります。現在は崩壊し、誰もが東と西を行き来することができますが、かつては大変な悲劇を呼んだ壁でもあるのです。 そのベルリンの壁には、「日 … ベルリンと言えば、多くの人がベルリンの壁を思い浮かべるでしょう。そんな壁ですが、街の中心部にその跡が幾つか残されており、今でも街が引き裂かれていた様子を確認することができます。しかし壁が築かれたのは街の中心部だけではありません。 ベルリンの壁に描かれたキスの絵(落書き)を知っていますか?ドイツが歩んだ過去の歴史を象徴する一場面を捉えた絵で、現在は観光名所としても知られています。「キス」、それは人と人の最も私的な繋がりで、この行為を行う際は、感情の高ぶりが伴っている場 ドイツの歴史的な建造物のひとつに、ベルリンの壁があります。現在は崩壊し、誰もが東と西を行き来することができますが、かつては大変な悲劇を呼んだ壁でもあるのです。 そのベルリンの壁には、「日 … 辺境伯の都からドイツ帝国の首都へ 1134年、アスカニア家のアルブレヒト熊公がブランデンブルク辺境伯に封じられベルリンをその拠点としたことに始まる。 つまり、ベルリンの起源は古代にさかのぼらず、中世に始まり、近代に政治都市として発展した都市である。 東ベルリンが旧東ドイツの首都になり、西ベルリンは、反対陣営に囲まれた島の様な存在でした。西側陣営によって統治された西ベルリンは、ドイツ連邦政府が治めていたわけではありませんでした。そして 1989 年 11 月 9 日、ベルリンの壁は崩壊しました。 第二次世界大戦後、東西陣営によって分割されていたドイツの首都ベルリンにおいて、1961年に西ベルリンを取り囲むように築かれたベルリンの壁。この記事では、建設された背景と理由、1989年の崩壊に至るまでの経緯ときっかけなどをわかりやすく解説していきます。おすすめの本も合わせて紹介するのでぜひご覧ください。, 1961年、東西冷戦の時代、東ドイツの中にあった西ベルリンの領地を囲み、ソ連と東ドイツが築きました。西ベルリンを取り囲む総延長155キロメートルにわたる壁が建設され、それまで自由におこなうことができた東西ベルリン間の交通は遮断され、多くの人々が一夜にして家族や友人たちと引き裂かれることになったのです。, その後1989年に崩壊するまでの間に、数度作り替えられましたが、最終的には高密度の鉄筋コンクリートによる頑丈なものとなります。また壁は二重に作られており、壁と壁の間は数十メートルの無人地帯。アラーム付きの金網やパトロール用の道路、そして多くの監視塔が作られました。物理的にも精神的にも越えがたい、高い壁となったのです。, しかし、それでも、この壁を越えて西側に逃れようとする者は後を絶ちませんでした。正式な記録は残っていないものの、その人数は6万人以上といわれています。, その多くは国境警備隊に捕まるか、射殺されるか、無人地帯にある運河などで溺死するか、壁から落下して死亡。壁を越えることに成功したのは5000人ほどしかいないといわれています。, また未遂で捕まり有罪判決を受けた場合には、平均禁固4年の刑を科されました。さらに逃亡を手助けしようとした場合にも重い刑罰が与えられ、終身懲役刑となる場合もありました。, 1939年に始まり、ヨーロッパ全土を戦火に包んだ第二次世界大戦の欧州戦線。1945年5月、ドイツの降伏により終了します。7月には、戦勝国の代表であるアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の代表がベルリンの郊外ポツダムに集まり、戦後処理を話し合いました。, この「ポツダム会談」の結果、ドイツは4ヶ国で分割統治されることとなり、首都のベルリンもアメリカ・イギリス・フランスの管理する「西ベルリン」とソ連が管理する「東ベルリン」に分けられます。, ドイツの地図を見ると一目瞭然ですが、首都ベルリンはドイツの中央にあるわけではなく、東ドイツにあります。このため、西ベルリンは東ドイツの中にぽつんとある飛び地のような状態になるのです。, やがて、アメリカやイギリスに代表される西側陣営と、ソ連に代表される東側陣営に対立が生じます。1948年、ソ連は西ベルリンと西ドイツの陸路を封鎖。これに対し、アメリカは食料などの物資を空輸することで対抗します。, 東西陣営の対立が激しくなるにつれて、西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」「自由世界のショーウィンドー」と呼ばれ、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が続出しました。1953年には社会主義体制に不満を持つ人々による暴動をソ連軍が制圧する「ベルリン暴動」が起き、この年だけでも30万人もの人々が西側に逃れたといいます。, その後も人口流出は止まらず、戦後15年間で約300万人にも達するなか、ソ連と東ドイツは1961年8月13日午前0時、西ベルリンをぐるりと取り囲み、通行を遮断しました。有刺鉄線を張り巡らせ、その後巨大な壁を建設します。この処置によって、東西ベルリン間の通行が一夜にして禁止され、家族や知人が不意に引き裂かれることになりました。, 1989年に壁が崩壊するまでの28年間、ベルリンは東西冷戦の最前線であり、ベルリンの壁は冷戦の象徴的存在となります。, 1985年、ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、「ペレストロイカ(改革)」、「グラスノスチ(情報公開)」と呼ばれる政策を推進していきます。これによりソ連邦内、東ドイツ、東欧諸国などで民主化を求める声が高まっていきました。, 東ドイツは当時、すでに有数の経済大国となっていた西ドイツとの経済格差を埋めることができず、財政的に苦境にあったうえ、抑圧的な体制に民衆の不満が高まっていました。ゴルバチョフの改革を東ドイツでも導入すべきという声が高まりますが、当時の東ドイツ・ホーネッカー政権はこれを受け入れません。すると東ドイツ国内でも不満がますます高まっていきました。, しかし、民主化の波は東欧諸国から東ドイツに打ち寄せてきます。1989年5月、ハンガリーがオーストリアとの国境線にあった鉄条網を撤去。続く6月には、隣国のポーランドで自由選挙がおこなわれ、東側陣営初の非共産党の政権が誕生します。東ドイツの人々はハンガリー・オーストリアを経由して西ドイツに亡命することが可能になると考え、多くの人々がハンガリー国境に殺到しました。, 9月11日、ハンガリーが国境を開放したことにより、多くの人々が西側への脱出を果たします。この動きに対し、東ドイツ政府はなんら有効な対策をとることができませんでした。10月、ホーネッカーが失脚し、後任としてエゴン・クレンツが書記長となります。, 彼はゴルバチョフに支援を仰ぎながら改革をして、この事態を乗り切ろうと考えますが、ゴルバチョフに支援を断られてしまうのです。また東ドイツは莫大な対外債務を抱えていて、破綻寸前の末期的状態にありました。体制に不満を持つ人々の出国やデモが相次ぐなかで、東ドイツ政府は追い詰められていきます。, そして、11月9日。政治報道局長のギュンター・シャボウスキーが、記者会見にて「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる。その際、許可証は不要であり、この政令はただちに、遅滞なく実施される」という主旨の発表をします。, この会見をテレビで見ていた人々がすぐさま壁に殺到し、その日のうちに国境検問所が開かれ、28年間東西ベルリンを分断していた壁は一夜にして崩壊したのです。, 冷戦の象徴だったベルリンの壁は、わずか数時間で崩壊。そのきっかけとなったのがシャボウスキーの記者会見ですが、ここにはいくつかの勘違いがありました。, 記者会見時に彼が本来発表する予定だったのは、「旅行規制の緩和」というもの。東ベルリンから西ベルリンに行くためには、正規の許可証が必要という内容であり、そしてその実施は翌日11月10日に発効する予定でした。決して彼が発表したように、「即時に」、「誰もが自由に」西ベルリンに行くことを認めるというものではなかったのです。, 勘違いの原因については、彼自身が報道局長に就任して日が浅かったこと、政令を策定する中央委員会が混乱し内容が二転三転していたこと、事務方との打ち合わせで何度も中座していたため政令の内容をしっかり把握することができなかったこと、会見場へ移動する車内が暗く、原稿に目を通すことができなかったことなどさまざまな要因が挙げられています。, いずれにせよ、シャボウスキーの勘違いによって、この記者会見は歴史的なものとなりました。, 壁の崩壊が始まってから1ヶ月後、ゴルバチョフ書記長は、アメリカのブッシュ大統領と地中海のマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言します。1990年10月には東西ドイツが再統一を果たし、1991年12月にはソ連邦が崩壊。文字どおり堰を切ったように、ベルリンの壁の崩壊をきっかけとして時代は大きく動いたのです。, 冷戦の最前線にして、象徴とも呼ばれたベルリン。ある日突然一夜にして分断され、家族や知人、愛する人々と引き裂かれてしまった人々……。, 本書は、実話に基づいて当時のベルリンを生きた人々の生の声を、漫画という形で伝えています。命がけで危険な脱出を試みた女性や家族、自身の誕生日にベルリンの壁崩壊を迎えることになった青年のエピソードなどから、この時代の異質さを感じることができるでしょう。, 壁崩壊20年を記念して設立された財団の助成を受けて上梓されました。年月が経過するにつれ、ベルリンの壁や冷戦といった事柄が遠く感じられるようになっている今だからこそ、あの時代を振り返ることには意義があるのではないでしょうか。, 著者は新聞記者として約30年海外報道に携わっていた経歴があり、ベルリンの壁が崩壊した際にも特派員として現地で取材にあたっていた人物です。, 壁の崩壊によって世界はグローバル化の時代を迎え、その流れは時を経るごとに加速していくかに見えていました。しかしブレグジットやトランプ大統領の誕生に代表されるように、各国は徐々に閉鎖的になり、グローバル化の流れは逆転しつつあるのではないでしょうか。, 筆者は、ベルリンの壁崩壊以降の激動の時代について、自身の豊富な取材経験に基づき、複雑な世界情勢の読み解き方を考察しています。文章もわかりやすく、また物事の原因から書かれているので理解がしやすいでしょう。先の読めない時代を読み解くために読んでおくべき一冊です。, 本書は20世紀を描く全3部作、「巨人たちの落日」、「凍てつく世界」に続く最後の作品です。第一次大戦、第二次大戦をテーマにした前作に続き、本作では東西ベルリンを隔てる壁、キューバ危機、ケネディ暗殺、アメリカ公民権運動などがテーマとなっています。, 小説であり、登場する人物は架空の人物。激動の時代を生きた3世代にわたる人々の物語です。しかし架空の登場人物だということを忘れてしまうほど、彼らの生きざまは烈しく、当時の情景がありありと目の前に浮かんできます。, 時代のうねりは、ひとりの力ではとても抗いきれるものではありません。しかし、自由を渇望する人々の意思がベルリンの壁崩壊につながったように、ひとりひとりの小さな意志が集ったからこそ、抗いがたいうねりが生まれるのも事実です。先の見えない現代に生きる私たちにとっても、大いに参考になるでしょう。, 同じ第二次大戦の敗戦国である日本にとって、東西ドイツの分断、そしてその象徴であるベルリンの壁に対して複雑な思いがあるのではないでしょうか。いまだ冷戦の遺物である朝鮮半島の分断は続いており、その脅威は日に日に高まっています。いつの日か朝鮮半島の分断も終わり、かつて東西ベルリン市民が手を携えたように、南北の人々が手を携える日がくればと願わずにはいられません。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。, 成田凌の人気の理由を出演作品から紐解く!実写化した映画、テレビドラマの原作の魅力も紹介, ビジネスパーソンのための世界情勢を読み解く10の視点 ベルリンの壁からメキシコの壁へ.